意識高い系の人が使う言葉は美術に転用可能か問題

2015.09.22
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こんにちは。
HPも公開されて、いよいよ宝田本格始動というところです。前回の記事が思ったよりも好評で、文章めっちゃうまいなんて言ってくださるかたもいました。普段自分の作品のステイトメントを書くとき死ぬほど悩んで絞り出した文章を見返してみると、「…である。しかし…しかない。ゆえに…せなばならない、色即是空。」みたいなことになってしまう僕はお世辞でも調子に乗ってしまいます。

ところでステイトメントというものはアーティストが自分の作品の説明のために書くテキストで、具体的な説明をしている人もいれば抽象的な表現をしている人もいます。直訳すると声明とか発言とかですが、アーティストが鑑賞者にこんな風なことを考えてるよという作品への入り口を示唆するものであったりします。

今回のテーマはこのステイトメントなのですが、なぜテーマに選んだかというと、こんなまとめを読んだからです。意識高い系と呼ばれる人々がよく使う言葉があるようで、その溢れ出る自意識から人気を呼んでいます。

この、意識高い系の人が使う言葉。なんか聞き覚えがあるなあと思っていました。仕事で使ったりもするということがあるのはあるのですが、それよりも美術のテキストを読んだり、ステイトメントで使う言葉とどこか似ているように感じたのです。そこで思いついたのがこの意識高い系の言葉はステイトメントに転用可能か、という問題です。そう、コピペは可能か問題。そこで意識高いワードをボロウしてステイトメントをリライトしてイシューをソリューションしてみたいと思います。

 

 

それではさっそくステイトメントを書いていこうと思うのですが、色々面倒なので以前私が大学の修了制作の時に書いたステイトメントを使っていこうと思います。それがこちら。

 


 私は北海道の帯広という街で生まれ、18歳までそこで暮らした。北海道の3月から4月は、まだ雪が多く残っていてどんよりと曇空が続く。ドラマや映画の中の、桜が舞う卒業式や入学式のイメージはどこにもみつけることはできない。寒空の下で撮られた記念写真の風景と、春の風景とが重なり合うことは一度もなかった。  その光景は、まるでまったくの偽物であるかのように私の眼に映った。それは、誰かの眼が自分の眼の中に入ってくるような、実に居心地の悪いものだった。

 このシリーズにおいて描かれている人々は、インターネットから集めてきた家族写真や記念写真の中に写っていたものである。その中でもある種の既視感を伴う写真を選択しているが、彼らはもちろん私と全く関わりを持っていない。既に彼らを知っていたかのような勘違いは、私の記憶を経由することで、写真に写っている彼らの姿を歪めていく。そして描かれたあとの彼らの姿は、ある客観的な事実であると同時に私の主観的な記憶とも重なり合っている。  私の制作において描くという行為は、類似しているが描くことで違うものになってしまうということであり、それはまるで”Paragraphia”(錯書)※1のような状態であるとも言える。  どこに存在しているのかがわからない不気味さと、私が直接関わることのできない場所で変わらずにそこにいるという安心感。その相反する二つの感情と向き合うために、私は名も無い彼らのポートレートを描いている。見ているものの確かさが失われ続ける中で現実と向き合っていくために、自分がどこから見ているのかを途切れることなく確認していくことが必要となる。  そして私は絵を描くという行為の中ではじめて、彼らに見ることを許される。

※1 目的語に対し異なる文字を書く失語症の言語症状の一種類。形態性錯書(人→入)、意味性錯書(手袋→靴下)、音韻性錯書(てぶくろ→たぶくろ)がある。

 

はい。久しぶりに読み返してみると結構意識高い感ある気がします。不思議ですね、意識は既にそこにあるはずなのに。

では、リライトしてみましょう。

 


 私は北海道の帯広という街で生まれ、18歳までそこで暮らした。北海道の3月から4月は、まだ雪が多く残っていてどんよりと曇空が続く。ドラマや映画の中の、桜が舞う卒業式や入学式のドラスティックイデオロギーはどこにもみつけることはできない。寒空の下で撮られた記念写真の風景と、春の風景とが重なり合うことは一度もなかった。
 その光景は、まるでまったくのイミテーションであるかのように私の眼に映った。それは、見当違いのKPIのように、実に居心地の悪いものだった。

 このシリーズにおいて描かれている人々は、インターネットから集めてきた家族写真や記念写真の中に写っていたものである。その中でもデジャブ、つまり以前コミットしたことがある気がする写真を選択しているが、彼らはもちろんアライアンスではない。既にコンセンサスがとれていたようなミスリーディングは、私がアサインすることで、PDCAサイクルを歪めていく。そして描かれたあとの彼らの姿は、デファクトスタンダードであると同時にファジーセオリーでもある。
 私のインキュベーションにおいて描くという行為は、シミラリティではあるが描くことでアザーシングになってしまうということであり、それはまるで”Paragraphia”(錯書)※1のような状態であるとも言える。
 ペンディングのまま一向に動きを見せないクライアントのような不気味さと、大丈夫、これはオンスケなんだという上司の安心感。その相反する二つの感情と向き合うために、私は名も無い彼らのポートレートを描いている。少しづつ壊れ行くスキームの中で現実をメイクセンスするために、ワーク・ライフ・バランスを途切れることなく確認していくことが必要となる。
 そして私は絵を描くという行為の中ではじめて、彼らに見ることをオーソライズされる。

 

はい。如何でしょうか。とってもハイコンシャスネスになったのではないですかね。これなら大企業へのプレゼンで恥ずかしい思いをしなくて済みそうです。

以上です。

 


鈴木 秀尚

鈴木 秀尚

画家 / フロントエンドエンジニア
@suzukihidetaka
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